事例紹介 / CASE STUDY

AIM コラム COLUMN

上司と部下

アバージェンスマネジメント研究所
主席研究員 高橋宏幸

上司と部下|昭和の高度成長経済から平成バブル崩壊まで

これまで約33年、企業人として働いてきました。この期間を振り返ると、いくつかの多くの変化があったと思います。あくまで私見ですし、若干デフォルメ気味ではありますが、私の経験を通じた時代観とその変遷について述べていきます。

今、私は管理者の方々向けにマネジメントの何たるかについて一緒に考えるような実践的な研修を手掛けるシニア・レクチャラーです。ですので、私の時代変遷に関する認識を、“上司と部下”、および“そのやりとり”という切り口から語っていきます。

私が社会人になったのはちょうど昭和が終わる頃です。学生気分が抜けないまま就職し、所定の研修を終え、いよいよ“サラリーマン1年生”として人事部に言われるがまま、とある部署に配置されました。

今まさに社会人ルーキーとして奮闘されている方々には想像しづらいと思いますが、私がルーキーだった頃の上司と部下とのやりとりとは、とても乱暴なものでした。

「いいからやれ!」、「オマエの意見は聞いていない」、「オレが白といったら黒いもんも白なんだよ」、「え、休みたいの?じゃあ明日から来なくていいよ」…。当時の上司から投げかけられた言葉です。例を挙げ始めたらきりがないほどの罵詈雑言の数々。ルーキーとしてそれほど低パフォーマンスであった訳ではないのに、それはまぁ大変に強烈な“指示”や“命令”、を受けていました。

上司からの攻撃の対象は私だけに限りませんでした。TVでは「24時間、戦えますか」というCMがあった時代です。もちろん、上司のなかには対話中心の関係を築いてくれた心優しい方もいましたが、稀有な存在でした。この時代、上司と部下のやりとりは、命令・示達をただただ受け止める、というのが当たり前でした。

命令・示達が通用した世の中

考えてみると、そのような指示命令型のマネジメント(それをマネジメントと呼ぶのならですが)にも良い作用はありました。高度経済成長期、家庭にはモノがありませんでした。TVは白黒、お風呂は銭湯通い、クーラーなんて図書館にしかないもの、計算はそろばん、等など、今思うと不便だらけでした。そんな時代に、カラーTVや湯沸かし器、エアコン、電卓など生活を少しでも便利にしてくれるものは、売れに売れました。

早く出せ、どんどん出せ、できるだけ多く出せ、がどんな企業においても経営戦略の一丁目一番地でしたので、商品開発から製造、販売まで無駄にしている時間はなかったのです。この時代の強い命令に耐え、且つ、優秀な実績を出せる人だけが長続きし、強い者がどんどんと勝ち進む時代でした。

一方で、どれほど上司から怒られようがマイペースを貫くようなツワモノもいて、そういう人たちを抱える余裕もありました。

引き継がれていく命令・示達

このような活況な時代を生き抜いた管理者の方々は、平成の半ばぐらいから定年を迎え始めます。時同じくしてGDPの停滞もいわば当たり前になってきたと思います。

販売競争を勝ち抜いた営業職の方たちは管理者になり始め、マネジメントをする立場になりました。管理者教育もありましたが「研修受けている暇があったら外に出ろ」と指示をされて育った方々は、教育されたことをどのように実務に落とし込めばいいのかがわかりません。

このような管理者の方々は、部下とどんなやりとりをしたのでしょう。多くの管理者は、ご自身の上司のやり方を見様見真似したのかもしれません。プレイヤーとして自分で売りに出て行ったのかもしれません。しかし、時代は変わっています。マグマのような需要は忽然と消えました。いばっても、息巻いても、売れない。その状態がずっと続く。単に怒号を撒き散らすだけの組織からは社員は離れていきます。

この売れない状況を把握・分析して新たな戦略や施策を打ち出すことに躍起になっている本部スタッフからは、あれ出せ、これ出せと資料請求が頻繁になる。月次ではわからないから週次にせよ、いや日次にせよ、と報告頻度も増える。管理帳票が増え、会議が増える。業績不振からくる本部の焦りから実績結果ばかり詰められ、現場に戻っては、報告すべき数値だけを聞いて集計して、また本部に報告…。年々、結果管理が厳しくなっていきました。

私見が多く混ざっているかもしれませんが、当時の時代感覚としてはあながち間違っていないのではないかと思います。まさに“にっちもさっちもいかない”状況に陥っていったのです。

“にっちもさっちも”をなんとかしたい

私が巨視的に当時を振り返ってみると、いつしか上司と部下の関係は逆転していったように思います。イケイケドンドンだった時代のような大量雇用はすっかり影を潜めました。少ない人材獲得原資を割いて集めた新入社員に辞められては困る。仕事が回らなくなってしまうからです。部下が辞めてしまわないよう上司が気を遣うようになりました。この頃からコーポレート・スタッフも、退職者を多く出す管理者は管理能力が低いという評価をし始めました。

しかし如何せん、管理者が有するマネジメントの知識やノウハウはとても限定的で属人的です。とりあえず手取り足取り教えていくしかないと決め込んだ管理者は、仕事の細部までやり方を懇切丁寧に教えるようになります。

上司と部下とのやりとりの歴史を振り返ると、それは怒号から実績収集になり、そして実務教育へと変遷していったように思います。

“手取り足取り”の状態が長年続くと、今度は自分で何をすべきかを考えない、考え方がわからない社員が出現し始めました。指示待ち族です。指示しないと動かない、指示した以外のことはしない。「何をやっておけばいいですか?」という質問が部下から投げかけられるようになる。「何をやっておけばいいですか?」とは、「及第点以上のことには時間を使わない」という手抜き思考の表れです。生産性の国際比較の影響で、残業は悪という考え方が徐々に様々な業界に浸透していきました。他方では社員を消耗品のように扱う悪徳企業も跋扈していて、それがニュースになり、時間管理の重要性がますます声高に語られるようになりました。

時間管理に注目が集まっていったこと自体は、とても良い変化であると私は思っています。一方、期日の迫った仕事が終わっていなくても「定時なので今日は失礼します」と堂々と帰っていく社員を見ていて、ため息が出た思い出もあります。

“にっちもさっちもいかない”状態は、姿かたちを変えながら、現場に覆いかぶさったままでした。

“にっちもさっちも”は解消できるのか

以上、だいぶ端折った歴史観ではありますが、私がこれまでのキャリアのなかで感じ取ってきた変遷をお伝えしました。

以下は、これから先、上司と部下のやりとりはどうなっていくのがよいのか、について私の考えを述べていきます。

説得から納得へ

高度経済成長期に飛び交った怒号も、本部報告用の現状把握と業務指示も、手取り足取りの行き過ぎた過保護も、上司から部下への説得である、という共通点があります。届けようとするメッセージは変わりながらも、それらは上司から部下へ一方的に伝えられ、何とかそれを飲み込ませようとするものでした。上意下達と言ってもいいでしょう。私が言う説得とはそういう意味です。

上意下達の様態がソフトであろうがハードであろうが、一方的であるという点に変わりはありません。

こういうやりとりは、“対話”とは呼びません。言葉の交わし合いはあるでしょうが、それだけでは対話とは呼べません。対話とは、お互いの考えや意見を出し合い、それを混ぜ合わせながら“その時その場で生成される新たな意味づけ”があってこそ、成り立つものです。

言い換えれば、対話のアウトプットとは対話前と対話後とに生じた新たな何かに対するお互いの納得なのです。

今現在も多くの管理者の方々が、部下とのコミュニケーションをどうすればよいのかを悩み、解を見つけられないでいるのではないか、と思います。

そういう方々に私から申し上げられることがあるとするなら、「対話を通じて相互の知恵を重ね合わせ新たな何かを生み出し、それにお互い納得するようにしてはいかがですか」となります。

上司と部下とのやりとり、つまり対話には、少なくとも2つの効果が期待できます。1つは、“新たな何か”が生まれる、ということです。VUCAの時代と言われて久しい今、ビジネス上の、あるいはマネジメント上の“解”とは、時々に変わり得るものです。“解”があってそれを探し求めるのではなく、探し求めているうちに“解”らしきものが見えてくるのです。

上司の皆さんはビジネス経験が部下の方々より豊富でしょう。部下の方々は今の現実に敏感でしょう。そのような上司と部下とが対話をすることで、「次の一手はこれにしてみよう」とお互いに納得できる何かを探し求め、それが確からしいかを実行をもって検証していく。このようなダイナミックなアクションが生み出せるのも対話の効果です。

もう1つは、上司と部下との、ひいてはチーム全体の信頼関係がより強固になるということです。「信頼関係を築こう」というスローガンをよく耳にしますが、それはお互いが目指す目標観をすり合わせ、お互いの役割分担を決め、お互いに貢献し合うことを対人関係上の明示的あるいは暗示的なルールにし、そのような関係のもとでやりとりを重ねることによって徐々に生じてくるものだと、私は思います。

マネジメントが事業ビジョン達成の手段であるのと同じように、信頼関係構築も上司と部下とが関わるビジネス上の機能的目標を達成するための手段です。休みの日にバーベキューをするとか、飲みニケーションを行うとか、そういう交流も良いでしょう。しかしそれを業務目標の達成のために行うのは違うと思います。このことは企業が機能体であるという揺るぎない事実によって明らかです。もちろん、家族づきあいをするような上司・部下関係も存在しますが、それはあくまで個人と個人の人間関係であり、職場にあっての信頼関係とは、共有する達成目標に向けた工夫を作り出していくためにあるものです。

“にっちもさっちも”の解消手法

山本五十六の名言にある四段階教育法を真似て、部下を褒めるのも良いでしょう。しかし褒めれば信頼関係が築けるわけではないことを、ここでは強調したいと思います。

上司には上司の、部下には部下の目指すことがあります。それは企業内における役割に応じたものでもあり、自己が描く中長期成長計画に基づくものでもあるでしょう。それらは当然、異なるものですが、上手にアラインメントを行い、互いに目指すことを明示し、そのために互いにやるべきことに合意し、それらを計画に落とし、実行し、結果を内省し、改善点を見出し、場合によっては方向そのものを見直す。このような対話を一定量行ったとき、二人の、あるいはチームの信頼関係はティッピング・ポイントを迎え、信頼関係に支えられた強固なチームが出来上がります。

このようなチームにおいては、互いに互いを高めるような投げかけが多くなるでしょう。計画の立て方、施策のToDoばらし、日々の業務計画の完遂、他部門との調整、お客様への訴求、パートナー企業との調整、競合他社への対策案出…。対策すべきことは数多くあります。

個人では思いつかない対策も信頼関係に支えられたチームでは、誰かがヒントをくれるかもしれません。一緒に検討してくれるかもしれません。時には建設的な批判も表出するでしょう。それらは「互いのためが自分のため」というベースがあるからこそ、全てが前向きに捉えられ、納得のもと相手に届くはずです。

ここまでお読みいただき、“にっちもさっちもいかない”モヤモヤが少しでも解消できれば幸いです。