アバージェンスマネジメント研究所
所長 渡部公太郎
「管沖」という人物
いわゆる“経済”の語源と言われ、「世の中をよく治めて、人々を苦しみから救う」という意味を持つ“経世済民”という言葉があります。中国古典で共通して取り上げているテーマの一つですが、とある歴史上の人物の話から紐解き考察します。
今から2700年も前と言われる、中国春秋時代の管沖(かんちゅう)[1]をご存知でしょうか。春秋五覇の筆頭として、晋の文公(重耳)と並び数えられる斉の第16代君主 桓公を、覇者たらしめたとも言われる人物で、斉の名宰相として知られます。
この人物について少しお話しすると、有名なところでは“管鮑の交わり”という諺があります。“互いに深く理解し、利害にとらわれない親密な交際”を意味していますが、これは、幼馴染であった管仲と鮑叔(ほうしゅく)の交友関係のことを今に伝える言葉です。管鮑とは2人の名字に由来します。
管仲と鮑叔の交友関係を探ると、鮑叔の管仲への理解(思いやり?)が深い、と見受けられます。ともに商売をして管仲が分け前を余分に取っても、鮑叔は管仲が貧しいのを知っていたので決して非難せず、また、管仲が戦に敗れて逃げてきても、母を養っているのを知っていて全く悪口を言わなかったとされます。
管仲が斉の宰相となれたのも、他でもない鮑叔のおかげだったようです。当時小白(斉公の位に就く前の桓公)に付いていたのは鮑叔で、管仲は、小白が跡目争いをしていた兄 公子糾に付いていました。管仲は公子糾を押し上げようとしますが、その試みは失敗し、小白が勝利します。小拍は命を狙った管仲をも殺そうとしますが、そこを救ったのが鮑叔でした。「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも宰相が務まりましょう。しかし、公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲でなければなりません」と進言し、その結果、管仲を引き取り宰相としたのだそうです。
管仲も「我を生む者は父母なり、我を知る者は鮑叔なり」と言って、鮑叔の厚意にいつも感謝し、二人の親密な友情は終生変わらなかったということから、“管鮑の交わり”という言葉が生まれています。ここまでの物語から、鮑叔という人物に対して強い関心が湧いてきます。
一方、管仲はといえば、人としてのどんな部分に鮑叔がこれほどの厚情を抱くに至ったのかがよくわかりません。私の知るところに限れば、法家思想の祖とも言われ、優れた経済政策の上に合理的法則を実施し、結果、斉の名宰相として名を馳せるに至った俊秀であったようです。そして、それを見抜いた鮑叔の慧眼に改めて感嘆します。
4本の大綱(道徳)
かの老子や孔子よりも前の時代に生きた管仲は、書物“管子”の中で、「国家を維持するのには4つの大綱がある」と言っています。国は一本の大きな柱のようであり、4本の大綱に引っ張られている、と表現します。その1本が絶たれると国は傾き、2本が絶たれると国が危うくなり、3本が絶たれると国は転覆し、4本全て絶たれると国は滅亡してしまう、とします。国が滅亡してしまってはもはやどうすることもできないのだと教えるこの4つの大綱を、管仲は“四維(しい)”[2]と呼んでいます。
四維とは、「礼・義・廉・恥」(れい・ぎ・れん・ち)です。“礼”とは、人間関係や秩序を維持するために必要な倫理的規範や様式のこと。国家や組織がつつがなく維持されるためには礼がしっかりしてなければいけないという意味でしょう。“義”とは、道義のこと。何のために組織や国家があるのかが明確でないといけないと受け取れます。“廉”とは、簡素、無欲のこと。華美にするような欲を持ってはいけないという戒めのようです。そして、“恥”とは、恥ずるべき何かがあること。他人の悪事に引きずられぬように、と解釈できます。これらが国を維持する4つの大綱なのだ、と表明しています。
管仲の政治的な主眼はつねに“民”にあり、国造りの原則は、“人”造り、すなわち“道徳”で維持されると考えていたようです。この四維を踏まえ実行すれば、人造りが国家に根付くと説きます。
ちゃんと儲ける(経済)
そもそも私が管仲に関心を持ったのは、とある経営者が管仲の話を引合いに出してお話しなさっていたのを拝聴したことがきっかけでした。その経営者が強調し、とても印象に残った管仲の言葉が、「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る。」です。
「今日、明日の食いぶちに困っている人に、礼や節度、人の道を説いたところで何の意味もない。着る物や食べるものが満たされて、人は栄誉や恥辱に気が回るものだ。」という意味です。
国民の生活が安定してこそ道徳心が芽生え、秩序の保たれたよい社会ができる。庶民の苦労を除き、生活を豊かにし、安全を図り、繁栄を図る。これが正しく行なえていれば、国民は自ずとその国を愛し、政府を信頼する。それなく、いかに美辞麗句を重ねようともうまくいかない。こう考えたと知られています。管仲より遡ること今から4000年以上前、中国神話に登場する聖天使 堯(ぎょう)皇帝も、天下が本当に治まっているか不安になると、目立たぬように変装して城下に出てその生活ぶりを確かめたといいます。
国造りの原則は、人造り。それは四維にも表現されていました。そして、私がお話を伺ったその経営者は、「(その基本条件として)経営者の責任は儲けることなのだ」と力強く語っていました。私にはこれがとても強く響きました。このお話を伺う前には、儲けるという言葉が卑しく感じてしまう部分もありましたが、管仲の言葉から“ちゃんと儲ける”ということを正しく理解したように思い、吹っ切れました。
先にあるのは卵か鶏か
日本でも、渋沢栄一氏や松下幸之助氏など多くの名経営者が“経済と道徳の両立”を掲げています。これは「道徳にとって経済は不可欠である」と同時に、その関係は表裏一体、逆もまた真なり、という命題の露顕でもあるように思います。そこから私は、江戸時代中期の思想家である商人出身の石田梅岩(ばいがん)という人物へと思い至りました。
米国の社会学者、ロバート・N・ベラー氏[3]は、著書の中で、明治時代に日本が急速な近代化を果たせた要因に、彼を開祖とする石門心学の存在を挙げます。身分や男女差なく、無料で石門心学を学べ、これだけ民衆に広く伝わった思想は日本の歴史上初めてだった、そう喝破しています。
梅岩は、「自らの精神で利己主義を抑え、常に天下、公の福利を願い、その実現につながる行いに励むことが人間の本性である」と考え、勤勉・倹約・正直を重んじ、それが日常の仕事に対して規律を持って持続的に取り組む人々を育むのに重要だと教えたのだとか。当時一般的であった賤商観(営利追求のみを目的とする)、それに対して商人の“社会的存在意義”を説いたものでもあったと言えます。
これは、最近の我が国で次世代の経営手法として注目されている“パーパス経営”にとても通じていると思料します。自らの社会的存在意義と向き合い続ける習慣が良い道徳を生み、それが国や組織を造り繁栄に繋がり、そして管仲が言うようにその繁栄がさらに優れた道徳心を育む土壌となる。つまりはこういうことなのか、と。アリストテレスの「優れた道徳心は習慣からしか生まれない」という宣言とも、根茎の部分で繋がっているとも思えます。
パーパス経営は、経世済民スパイラル創出のカギとなるものなのかもしれません。
[1]管仲 上(2003)宮城谷昌光著、文春文庫
[2]中国の思想8管子(1996)松本一男訳、徳間書店
[3]徳川時代の宗教(1996)ロバート・N・ベラー/池田昭訳、岩波文庫