メッセージ MESSAGE
当社の考え方、フィロソフィーをご紹介します。
アバージェンスの創業メンバーで、現在はソーシャルビジネス支援を行うユヌス・ジャパンの理事も務める小口善左衛門が記したもので、創業から10年までの記録でもあります。
想う「私たちは何者か」/PHILOSOPHY
皆様からの御支援をいただき、我々アバージェンスは一年目の航海を終え、二年目の航海に出ることができました。改めて御礼を申し上げます。
一年目の航海では19のお客様に御縁をいただき、お仕事をご一緒することができました。今までは全く接点の無かったお客様(学校法人・独立行政法人)とプロジェクトをご一緒することができたことや、今まで経験の無かったテーマにてお客様とプロジェクトをご一緒することができたことは、我々にとって大きな財産となりましたし、アバージェンスは世の中に 貢献できる幅を広げることができるという若干の手応えにもなりました。
現在までのアバージェンスの航海にて感じることは、様々な組織において「魂の継承」が断絶しつつあるのではないか、ということです。最近「○○魂」という言葉が現場で聞かれなくなりつつある様に感じます。世間の言、世の流れ、シェアであり、利益水準。そういった相対価値を無視するという訳ではないが流されない。流されないための「絶対価値追求の姿勢」。それこそが「○○魂」という言葉に表されていた様に感じます。競争に勝つためならば法に触れることも平気でする、他社より儲けるためならば自社のこだわりであった品質すら平気で落とす、自分を守るためならば平気で嘘をつく。現在の世の中はこのような事象に溢れているように思えてなりません。
我々アバージェンスは斯様な流れに棹差すことをしたいと真剣に考えています。アバージェンスが差す棹はお客様と共に実施するプロジェクトです。我々のプロジェクトの特徴は「目に見える成果」をお届けすることにあります。お客様にとって重要な経営指標の良化をプロジェクト目標に設定し、お客様のマネージメント現場に張り付く形態にて、プロジェクト期間内にその目標を達成していきます。
しかしながら我々は、経営指標の目標達成を第一義に捉えてはいません。我々のプロジェクトの第一義は「人の育成」にあります。プロジェクトを通じて人が育てば、経営指標の目標達成は副次的産物として必然的に手に入るものであると考えています。
我々アバージェンスの会社のロゴ先頭文字は、「A」を表していると同時に「人」を表しています。我々は今後一人でも多くの「○○魂」を持った人物を世に送り出すことによって、世に貢献したいという決意を込めたロゴとしています。たとえ一本は小さく細い棹だとしても、一本ずつ丹精込めて差し続け、その棹から「○○魂」を持った人物を生み出し続けていく所存です。我々アバージェンスの二年目の航海にご注目をいただければ、望外の喜びです。
アバージェンスという我々の社名は、「AVERMENT」+「EMERGENCE」という二つの言葉を掛け合わせた造語です。AVERMENTという言葉は、英語を母国語としている人でも馴染みの薄い単語だそうで、「断言する」という意味を持っています。EMERGENCEの方は聞かれることも多いと思いますが、「創発する」になります。1946年以来、マネジメントに焦点を絞ったコンサルティングサービスを提供して来た結果、我々がクライアントの皆様と共に作り出したい「マネジメントの形」を社名といたしました。
自分達は何をもって世の中に貢献したいのか、そのためには何を世の中に提供するのか。このことを真剣に探求し続け、想い定める、こんな風景を「断言する」という言葉で表現しました。また、想い定めたからには、世間が何と言おうとも我が道を突き進み、如何なる困難に直面しようとも諦めない、そんな風景を「創発する」という言葉で表現しました。織物にたとえて言うならば、「断言する」とはしっかりとした縦糸をはることであり、「創発する」とは丹念に横糸をとおすことであると考えています。
ここ数年コンサルティングの現場にて感じることは、様々な組織において縦糸が緩んでいる、緩んでいるに止まらず喪失していることさえある、ということです。2005年以前を思い起こせば、「横糸をとおす」ことのお手伝いをするプロジェクトの数が多かったと記憶しています。
組織としてやるべきことは分かっているものの、なかなか組織全体では徹底できずに多くのバラツキが存在しており、そのバラツキによって生じている機会損失を共に回収して欲しいというテーマのプロジェクトが大半を占めていました。2006年以降、今申し上げた様なプロジェクトの数は年々減少し、今ではほぼ全てのプロジェクトにおいて、『縦糸をはる+横糸をとおす』というテーマをクライアントの皆様と探求させて頂いています。
少し話は変わりますが、大航海時代のキャプテン達には大変な苦労があったという話を耳にしたことがあります。船主から船を借りたり、豪商から金を引き出したり、乗組員を集めたりするためには、「航海の意義」を多様、且つ魅力的に語ることができなければなりませんでした。
特に難易度が高かったのが、乗組員を集めることで、船も金も揃ったにもかかわらず、航海に出ることができずに終わったキャプテンが数多くいたそうです。港で樽の上に立ち、自分の想いをプレゼンテーションするキャプテン達の姿は壮観で、船乗りに限らず多くの聴衆が集ったという話も残っています。
いま、皆様の組織には何人のキャプテンがいらっしゃるでしょうか。自らの想いを持ち、したたかに出航の準備をし、仲間と共に航海に出発するキャプテンが。我々は現在、多くの組織が航海に出る季節になったと認識しています。組織として無謀な賭けに出るということでは決してなく、自分たちの『絶対価値』を深く掘り込み、勇気をもって第一歩を踏み出す季節になったと感じています。そしてこれからの季節には、『縦糸をはる』ことのできるキャプテン達が必ず必要であるとも感じています。御縁を頂戴できたクライアントの皆様と共に、一人でも多くのキャプテン達を作り出すことを決心しています。そしてそのことが、企業経営だけに留まらず、『世の中を少しだけマシにする』ことになると信じています。
年初来、経済面では僅かな「転調の兆し」は感じられるものの、多くの課題が山積している状況には何ら変わりなく、依然として道筋が見えてこない状況が続いている様に感じます。企業経営陣の方々とお会いし、お話を伺っていても、同じ様な感覚をお持ちの方が多いように見受けられます。
我々アバージェンスが大切にしている言葉の一つに、『外整内調』という言葉があります。皆様の耳に馴染みのないのは当然であり、アバージェンスの造語です。その意味するところは、「外を整(ととの)えずに内を調(ととの)えようと焦ったところで、決して内は調わない。まずは外を整えよ。おのずと内は調えられる」というものです。
不調に陥った時、不調そのものに目や気が行き過ぎ、身の回りにある『やるべきこと』を疎かにする。そのことで不調を長期化させてしまっている多くの組織や多くの個人を目にしてきました。そして不調から脱するには、やはり身の回りにある『やるべきこと』をキッチリ行うしかないのだということを学んできました。これを『外整内調』という言葉にて表しています。
『外整』には、日頃の積み重ねが肝要であるとも感じます。「不調になったので、私(我社)は『外整』することにします」ということは不可能であり、習慣として『外整』を身につけていることが必要となります。優れたリーダーたちは、この習慣を組織に埋め込むため、大変な労力を費やしている様に見受けられます。
歴史上にて一例を挙げるならば織田信長という人物です。この人は細かなことに異常にこだわり、部下たちを厳しく指導していたと伝えられています。「城の廊下に埃がある。もっと綺麗にしろ」という指導や、「廊下を歩く速度が遅い。もっと早く歩け」という指導を、ことある毎に行っていたという逸話が残されています。信長個人の特性(強迫神経症、潔癖症)に因るものだという説もありますが、私は信長の意図的な行動であったと考えています。いかに優れた戦略・戦術を編み出したところで、それを実行する組織に『良き習慣』がない限り無意味であるし、無意味である故に、『良き習慣』がない組織には優れた戦略・戦術は舞い降りてこない。信長はそのことを明確に認識していたがために、懸命に部下たちの生活指導に励んでいたのではないかと思うのです。
道筋が見え難い今だからこそ、身の回りにある『やるべきこと』を疎かにしない。まずは我々アバージェンス自身が肝に銘じることであると認識しています。その上で、様々な実業の現場において『外整内調』が実現されることにお役立ちしたいと考えています。
道筋が見え難いと佇み、環境への不満を述べたところで物事は変わりませんし、道筋を無理に見ようとしたところで、正しい道筋は決して見えてきません。見えてこないことに焦りを覚え、むりやり何かしら手を打ったところで、それが正しい道筋に繋がることは決してありません。
道筋が見え難い今だからこそ、ひとつひとつ行動を丹念に行う。そしてひとつひとつを丹念に行う深みから、将来への道筋を掬い上げる。その様な組織が着実に増えていくことに、われわれアバージェンスは一丸となって貢献していく所存です。
われわれアバージェンスは「自責」という言葉を大切にしています。経営現場で、進捗の芳しくない課題の原因をマネジャーの皆さんに尋ねると、こんな回答が返ってきます。「方針を打ち出せない社長が悪い」「何度言っても理解できない部下が悪い」「現場を理解していない上司が悪い」「協力しない他部署が悪い」……。このような「他責」の立ち位置をとる限り、課題解決に進展はありません。難易度が高ければ高いほど、各人が「誰か」の行動変化を待っていて、結局課題は放置されたままです。
ご一緒させて頂くプロジェクトで、アバージェンスのクルーは「他責ではなく自責で捉える」ようクライアント側のマネジャーたちに迫ります。そして経営課題への解決行動を起動させ、定量・定性成果を創出します。その結果を目にするたび、自責の立ち位置をとる人が発揮する課題解決能力の高さに心底驚かされます。「目の前の風景が変わらない」と愚痴を言っていて、何かが変わることはありません。原因の一端は自分にあると捉え、過去とは違う一歩を踏み出した人だけが「昨日とは違う風景」を目にできます。
ところが残念なことに、目覚ましい成果を創出したマネジャーが、新たな課題に直面すると再び「他責の立ち位置」となるのもたびたび目にします。「自責の立ち位置」が続かないのです。伺ってみると異口同音に「過去の自分を否定し続けることは辛い」と口にされます。それを聞くたび、自責を生活習慣レベルにできていないと反省させられます。自責を別の側面から考えておくべきと感じるのです。
そこでアバージェンスでは「自責」をこのように説明します。自責とは、たとえどんなことが起きても「目の前の状況は自分に何を教えているのか」と自問する立ち位置をとること。自責とは、変えられない過去を検証・分析・反省・否定することではありません。自責とは、未来の行為を生み出すため、過去をクールに振り返ることです。自責を生活習慣とするためには、未来に視線を向けることが大切です。自責の言葉がもつ語感を、過去から未来へシフトすべきなのです。
「是非に及ばず」。織田信長が好んだと伝えられる言葉です。「起きたことに良いも悪いもない。肝心なことは、起きたことから何を学び、おのれがどんな一歩を踏み出すかだ」、そう言いたかったのだと思います。現在の日本においても喫緊の課題は「自責の立ち位置を取れる人」の総量を増やすことだと思います。われわれアバージェンスもプロジェクトを通じ、そのような人の数を日々増やし、世間に少しでもお役立ちできればと考えております。
鷲田清一(元大阪大学総長)著『しんがりの思想』を読みました。なかでも「市民性の衰弱」の観点に、つよい興味を覚えました。
日本社会は明治以降、近代化の過程で、行政、医療、福祉、教育、流通など地域社会における相互支援の活動を、国家や企業が公共的なサービスとして引き取り、市民はそのサービスを税金やサービス料と引き替えに消費するという仕組みに変えていった。(p. 47)
社会システムの変更により、日本は国力を増強し、経済大国と呼ばれました。しかし、行動様式も変わります。
高度成長期から高度消費社会への移行のなかで、それら日常生活でかならずこなさなければならないことが、行政の公共サービスや企業によるサービス業務にとって代わられるようになった。みずから体で憶え、果たすのではなく、サービスを選ぶのがわたしたちのいとなみとなった。(p. 64)
「果たす」ことをせず、「選ぶ」ことに慣れきったわたしたちは、サービスに不満を持つと、クレームをつけるようになりました。成熟した市民なら行うはずの「対案を示す」ことをせずに。しかし時代が変転しつつある現在、クレーマーばかりでは社会は立ちゆかない。「市民性」の回復が必要ではないか。そのような趣旨の問題提起がなされていました。
市民の数が減り、クレーマーの数が増える――マネジメントの現場でも同様の危機感を抱きます。「方針を打ち出せない社長が悪い」「何度言っても理解できない部下が悪い」「現場を理解していない上司が悪い」「協力しない他部署が悪い」云々。それらの言葉の後に、対案の提示はありません。
アバージェンスは「自責」を大切にしています。自責とは、たとえどんなことが起きても「目の前の状況は自分に何を教えているのか」と自問する立ち位置をとること。クレーマーの姿勢を改め、対案を示す「市民」となれるようマネジャーたちを支援することが大切ではないか。
そのためには、まずわれわれコンサルタントが「市民」でなければなりません。コンサルティングという商いは、クライアントのマネジメント上の不備をあげつらい、「あなたたちが変えるべきです」と言って済ませることも(原理的には)可能です。しかしそれでは、やっていることはクレーマーと同じです。
日頃から「懸命に対案を考えよ。クライアント以上に懸命に考える姿勢が、行動変化を生み出す」とクルーに話しています。いま一度「クレーマーではなく市民」の視点で「対案」の重要性の共有を徹底したいと思います。
まず自分たちが「市民」となり、提供するサービスを通じ、一人でも多くの「市民」出現に貢献する。これが次世代を「ほんの少しマシにする」と信じています。
知人の薦めで映画『殿、利息でござる!』を観に行きました。あまり邦画を観ないので、気乗りせぬままショッピングモールのシネマコンプレックスに足を運びました。豈図らんや。大変に佳い映画で、久方ぶりに暗闇で涙しました。江戸時代中盤、仙台藩での実話で、ほぼ無名の人たちの偉業が描かれていました。観終わってまずこう想いました。
「自分は劣化している」
わずか250年前の先人(とはいってもほんの少し前の人々)と比べ、自分の考えや行いのレベルはどれほど低いのか。思い知らされ嘆息しました。決して重い映画ではなく、笑いと涙が満載。原作『無私の日本人』(磯田道史)と併せ、ぜひご覧いただきたい作品です。
話は変わりますが、仕事の関係で台湾について勉強していた際、台湾総督(第4代)児玉源太郎の下で民政長官を務めた後藤新平の言葉に出逢いました。
金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそ上なり
(『台湾人と日本精神』 (2001) 蔡 焜燦 小学館文庫)
恥ずかしながら後藤新平の名前は「聞いたことがある」程度で、彼の業績も初めて知りました。後藤が台湾で行った諸施策のなかでも「教育」への熱量は際立っており、若く優秀な教育者を次々と台湾に呼んだとのこと。今でも御老人のなかには「教育が台湾に『公に奉ずる精神』をもたらしてくれた」と言ってくださるかたもいるそうです。
後藤は面倒見も良く、お金の相談にはまず100%応えました。その一人、正力松太郎は語っています。「後藤の死後、後藤家には55万円の借金が残った。遺族は不動産を処分して返済した。その気になればいくらでも私財は作れたのに」。これもまた、90年前の先人の御話(とはいってもほんの少し前の御話)です。
先日ある御客様の御縁で、後藤が台湾に設えた茶室の「床柱」を拝見しました。後藤みずから取り寄せた銘木と伺い、実際に触らせて頂きました。大変な感激と同時に湧いてきたのはこの想いでした。
「自分は劣化している」
皆様のご支援を頂戴しながら、我々アバージェンスは「6年目の航海」に出航することが出来ました。アバージェンス一同、改めて厚く御礼を申し上げます。本年度は、我々のコンサルティング・サービスが産声を上げてから70年の節目となります。
節目の年に「先人たちの偉業」に出逢っていることには、意味があるように思われます。アバージェンス一同目線を上げ、「公に奉ずる」ため「我々はいかなる航海をしていくのか」を考え抜く一年にしたいと考えております。引き続き、御指導・御鞭撻を賜ることが出来れば幸いです。
見立てる「世界をどう見るか」/INSIGHT
29歳でわたしは銀行を辞め、マネジメント・コンサルティングの道に入りました。入社早々、この商いでは食べていけないかも、と焦ったことを今でも思い出します。とにかく先輩や同期の知識は豊富で、発言の半分も理解できない。コンサルティング現場に行っても、目にすること耳にすること、わからないことばかり。
まずい。わたしという船が沈没する日も遠くないぞ。そう思いました。そこで、まずは理解できるようになろうと考え、週に7冊(苦手な7分野から各1冊)本を読むことにしました。慣れない仕事をしながらの読書は大変です。しかし何より辛かったのは、理解力向上の実感がないことでした。「もっと上手い方法があるのでは?」「そもそも適性がないのでは?」と悩みながら、仕事と読書の日々が続きました。
3年が経ったある日、ふと気づきました。「理解できないことへの恐れ」が弱まり、「だいたいわかったので、まあ何とかなるだろう」と考えている自分がいたのです。残念ながら啓示や悟りなどの劇的な出来事もなかったので、なぜそうなったのか、自分でもわかりませんでした。しばらく経って気づきました。読了数が1,000冊を超えていたのです。
アバージェンスは「千の単位」を大切にします。「百ぐらいでは頭でわかった気になるだけ。千の数を積んでこそ、身体を通じてわかることがある」と考えているからです。ですので、当社の新人も「千の単位」に取り組みます。千を積んだ者は、不思議と身に纏う空気が変わり(重心が落ち、腰が据わった印象になります)、少し大きな仕事も任せられるようになってきます。
石の上にも三年(1,095日)。これも「千の単位」を教えているのでしょう。先賢たちは素晴らしい智慧を遺してくれているものです。一方、教えが極めてシンプルなので、実際に千を積まずして「わかった気になっているだけの人」が多いとも感じています。
長年お付き合い頂いている企業トップが、百回目の推進委員会(企業改革活動報告会)でこう発言されました。「たしかに今日は節目やな。せやけど、千回やって、なんぼやで」
「身体でわかる経験をした人」を増やすことは、現代的な重要テーマのひとつではないでしょうか。「わかった気になっている人」ばかりでは、きっと今後も続く荒海を超えるのは難しいように思われます。
「千の単位」は「身体でわかる」ための優れた方法論のひとつだ、とわれわれは考えています。プロジェクトで「千の単位」を体感して頂き、その後の企業改革活動でも「千の単位」を次々と継続する。そのようなクライアントの数を増やすことを通じて、この重要テーマへわずかなりとも貢献できればと考えております。
私事にて恐縮ですが、昨年末より剣道を15年ぶりに再開いたしました。父親に似て運動が苦手な長男が、「運動音痴のお父さんでもそれなりの水準にはなったのだから、おそらく自分もできるはず」という動機にてはじめたものに、日頃の運動不足解消の一助にでもなればという至って軽い気持ちからつき合っただけでしたが、通いはじめた道場にて“とんでもない猛者”と出逢うこととなりました。
“とんでもない猛者”というのは道場主を務める先生なのですが、御年八十歳、どんなに高段者の先生方でも流石に自分から打つということは影をひそめ、稽古相手の技を受けることが多くなる頃合いです。ところがこの先生は次から次へと自分から技を繰り出してきます。はじめて御手合わせを願った時には本当にびっくりしました。息継ぐ間もなく繰り出されてくる技に全く対処することができず、稽古の間中ただ一方的に打たれ続けるという惨状でした。惨状は良化しつつありますが、現在も週に一度は“とんでもない猛者”に鍛えて貰っています。この年になって到底敵いそうもない相手と巡り合えたことに感謝しています。
余話が少し長くなりましたが、今回はこの“とんでもない猛者”からの教えを皆様と共有いたしたく存じます。ある稽古の後、「あなたは間合いを距離感としか捉えられていない。間合いとは手触り感ですよ。手触り感を手にすることができなければ、およそ生き残ることはできません」という言葉を、とてつもなく穏やかな笑顔と共に頂戴したのです。剣道の教えにて、“間合い”という言葉は嫌になるほど耳にしてきました。「間合いが近い」、「間合いが遠い」から始まり、「間合いがあっていない」などなど。17年間ほどやっていれば、“間合い”とは距離感だけの話ではないと何となく感じてはいたものの、では何なのかは全く分かってはいませんでした。新しき師から“手触り感”という言葉を頂戴した途端、「あぁ、間合いとはそういうことか」と目が醒める思いでした。八十歳にして求道の道にある人は、実技ばかりでなく、言葉も日々研ぎ澄ませていることを痛感した瞬間でもありました。
剣道の話を長々としてまいりましたが、日頃接している組織マネジメントの場においても、“手触り感”という概念は重要なことではないかと感じております。コンサルテーションの御相談を受ける組織のマネージャーの方々から、「実際のところ、組織でどの様なことが起こっているかが分からない」という言を聞く機会が多い一方、今迄ご縁を頂いたマネジメントにおける“とんでもない猛者たち”の言からは、間違いなく“手触り感”が色濃く香っていますし、猛者たちは“手触り感”を保有するために日々工夫を施していることがヒシヒシと感じられます。
“手触り感”を保有するということは、“微差を捕捉する能力”を獲得することであると思います。その能力なき武芸者の“生き残る確率”は極端に低く、故に武芸者たちは“間合い”という概念を究め続けた様に思うのです。
剣道における“間合い”の究め方は、歴史が長いだけあり、方法論として確立している部分も多々あります(それでも個人的には、方法論として確立していない部分の方が圧倒的に多いとは感じています)。剣道に比すれば、組織における“間合い”の究め方は白紙の状態であるといって過言ではないと感じています。
白紙だからといって手をつけない訳にはいかない時であると考えていますし、白紙だからこそアバージェンスとして挑戦していきたいと考えています。組織として「生き残る」ことを可能にするため、“手触り感”を手にする方法論を真剣に追究して参る所存です。KAIZENに続き、MAAIという用語が世界に飛び立つ日を夢見て。
「このご時世、リーダーの『力量』が問われていると思うんです」、ある企業トップが、面談でぽつりとおっしゃいました。「ウチのリーダーには『技量』はあっても『力量』がないんですな」
そう言って、自身の力量不足ゆえに現況がある、と深く反省しておられました。
オフィスに戻り『日本語 語感の辞典』で【力量】を引くと、こう書いてありました。
ものごとを巧みにこなし、それをなし遂げる能力の程度の意で、やや改まった会話や文章に用いられる漢語。(中略)「技量」に比べ、統率力・実行力などを含む総合的な実力を連想させる。
技量があっても力量がない。これは現在のマネジメントを取り巻く大きな課題ではないか、と考え込まされました。
「力量」という言葉には「身体性」も感じます。たとえば、頭でっかちで賢いだけのリーダーには、誰もが危うさを感じます。ついていって生き残れると思えないからです。技量のみのリーダーは、平時は頼もしいものの、いざという時に技を出せるか疑問です。
高い技量を持ち、その「技」を実戦で磨き、数々の修羅場をくぐり抜け、実「力」を身につけたリーダーだけが「技」量を「力」量に昇華できる。そんな「力量」を身にまとったリーダーに接すると、部下は「生存できる可能性」を本能的に感じるのではないか。想い起せば、ご一緒させて頂いた企業でも「力量ある人物」が改革活動をリードし、結果的に高い企業パフォーマンスを手にしておられます。
であるならば、リーダーシップについて分析的にアプローチしているだけでは「力量」は手にできないはずです。マネジメントの現場で、日々不安と闘い、自分の技を出し続け、最後に部下の喜ぶ顔を見る。これを何度も経験することで「あの人にならついていきたい」と言われるようになり、やがて「あの人には力量がある」と評されるのではないでしょうか。
明治時代、軍事顧問として来日したメッケル少佐は、関ヶ原の戦いの布陣図を見て「西軍が勝つ」と断言しました。ご存知の通り結果は逆です。私などは、徳川家康が身にまとう「力量」が戦いのセオリーを覆したのではないかとつい想像し、ワクワクしてしまいます。
企業変革の前線に立っていると、「何を」言っているかだけでなく、「誰が」言っているかが重要な時節に入ったことを感じます。大仰なようですが、現在の世界的な重要課題のひとつも「力量ある人物の創出」と言って良いのではないでしょうか。
ご一緒するプロジェクトを通じ「力量ある人物」の輩出に貢献することはわれわれの使命です。アバージェンス一同、更なる精進を御約束申し上げます。
われわれがご縁を頂戴している企業の多くが、初期プロジェクト終了後も長期間(3年~20年)にわたり「社内改善・向上活動」を継続されています。全てのプロジェクトで「社内定着」をゴールに設定し取り組んでおりますので、このようなお客様の数が増えることをわれわれ一同大変嬉しく思っております。
一言で3年~20年と申しますが、実に大変なことと存じます。そこには「絶やさぬ知恵と工夫」が詰まり、多くの人の「絶やさぬ意志と執念」が溢れています。頭を使い続け、気合いを入れ続けていると「集団としての生命力」が生まれ、「機会損失の極小化」の形で顕れます。いかにして「集団としての生命力」を身につけるかは、企業経営の重要テーマだと感じています。
継続の大切さを考えると、もうひとつ重要な視点、「努力の堆積」に行き着きます。幸田露伴はこう書きました。
東洋流の伝記や歴史で見ると、英才頓悟、もしくは生まれながらに智勇兼ね備って居たといったようなものがあって、俊秀な人は何事も容易に為し得たかの如く書いてあるが、それはむしろ事実の真を得ないものだといわねばならぬ。また、縦(よ)しんば英才の人が容易にある事を為し得ないとするも、その英才はいずれから来たか。これはその人の系統上の前代の人々の「努力の堆積」がその人の血液の中に宿って、而してその人が英才たる事を得たのである。
(『努力論』(2001)幸田 露伴 岩波書店 p.90-91)
これを目にしたとき、今まで気づかずにいた、とても重要な事柄の端を掴まえたと感じました。6年ほど前から「機会損失の極小化」に加え、「新しき機会の創出」ができなければ、「集団としての生命力」があるとは言えないと感じていました。しかしどうすれば良いのか、理路の手掛かりがなかったのです。
ひとりの英才が新しき機会をもたらす。真のアイディアはひとりの英才に舞い降り、それが集団を新しき世界へ誘う「扉」を開くのではないか。集団は英才の登場を待つだけでなく、作り出せるとの理路の手掛かりを、露伴から得たと感じています。
「社内改善・向上活動」の継続には並々ならぬ苦労があります。企業を取り巻く環境が良ければ「こんな地味な活動をすることはない」、環境が悪ければ「こんな地味な活動をしている場合ではない」との声が上がります。環境の良悪に関係なく、継続を止める誘惑が常にあるのです。
継続を止めると、短期的には「機会損失の極小化」の機能を失い、集団の生命力、ひいては存在価値を減じます。長期的には「まだ見ぬ英才」を生み出すことを放棄し、従来の世界を出ぬまま末期を迎える道を選ぶことになるのではないか。
われわれアバージェンスのモットーは「常に実践者であれ」です。知っているだけでは理路にあらず、実践を伴いはじめて理路になると信じます。今回ご紹介させて頂いた理路の手掛かりを、今後とも現場で実践していく所存です。
「ありたい姿」。この言葉が気になっています。
「この状況はこうだから、こうしよう」と判断し、日々、行動しています。ところが「なぜそう理解したのか、なぜそうしたのか」と考えてみると、確固たるものが何ひとつない(ような気がする)。本通信前号にて「『自分で考える』ことが重要になってきている」と書きました。しかし自分こそ「内的かつ自律的」に「自分で考えて」いないのでは。そんな反省を重ねていました。
とは言っても日々、行動はしている。
その基は何か。思い浮かんだ言葉は「あるべき姿」。確かに「あるべき姿と現状のギャップ」を捉え、行動してはいるようです。
『ありたい姿』と『あるべき姿』。表現が少し違うだけではないか? と思われるかもしれません。しかし、人は言葉によって物ごとを認識するのですから、言葉遣い(あるいは言語表現の微差)は重要でしょう。「あるべき」との表現から、私は「外的かつ他律的」な匂いを受け取るのです。
よくよく考えてみると、私自身の今までの学びや先人からの教えに照らし合わせ、「この状況はこうだから、こうしよう」と判断し、行動することは、本当に「内的かつ自律的」なのか? 「自分で考えて」いるのか?
「あるべき姿」が不用とは思いません。想い描くもの(=あるべき姿)と現状のギャップ(=問題)を正しく把握せねば、日々の時間は漫然と流れ、身の回りの状況に一喜一憂するばかり。そんな惨状を回避する為に「あるべき姿」は有用な道具です。
有用とは思いつつ「この思考の型でよいのかな。本当に『自分で考えて』いるのかな」と自問している時に浮かんできたのが「ありたい姿」。
今まで蓄積してきたもの(体験やノウハウ)から目と手を放し、「私という者」も一度脇におき、考える材料に素手で取り組む。その結果、手にできる(であろう)ものを「ありたい姿」と呼んでみよう。「ありたい姿と現状のギャップ」を認識することで、起こす行動も変質するのではないか。
道具(言葉遣い)を変えたばかりで大言壮語はできませんが、いくつかのテーマを考えるにあたり、手応えを感じています。想い描いた「ありたい姿」を「私という者」の双眼が見ることがないとしても、後に続く者が見ることを確信できます。こんな心持ちは初めてです。
「内的かつ自律的」に「自分で考える」ことを可能にしてくれそうな「ありたい姿」という言葉。この道具を究めてみたいな、と思っています。と書きながら、ふと当社が以前(2012年9月)にまとめた書籍(『新説マネジメントⅠ:道具』)を開いてみると「問題の定義:ありたい姿と現状のギャップ」と記してありました。当社のクルーがむしろ先に気づいてくれていたのかと、心強く感じた次第です。
過日7月15日、YYコンテスト2014(Yunus & Youth Social Business Design Contest:学生によるユヌス・ソーシャル・ビジネスデザインのコンテスト)の審査員を務める貴重な機会を頂戴いたしました。予選を勝ち抜いた4チーム(全39チームが出場)のプレゼンテーションを聴き、若人たちの真剣な姿勢と態度に接し、私をはじめ大人たちにむしろ学びが多くあった様に感じています。
ユヌス・ソーシャル・ビジネス(以下YSB)とは、ノーベル平和賞(2006年)受賞者のムハマド・ユヌス博士が提唱・推進している概念で、ビジネスという『器(うつわ)』を山積する社会問題の解決に使おうとするものです。ビジネスという「器」の利用目的は、ここ暫く「利益の最大化」の一側面に傾き過ぎており、この均衡の崩れを放置していてはかえってビジネスという「器」の存在価値を損ねるのではないか、と感じています。
YSBは、均衡を取り戻すことの重要性とその方法をわれわれに提示してくれているものと認識しており、日本での活動を微力ながらアバージェンスがお手伝いさせて頂いている次第です。
YSBの起点は「あなたはどんな社会問題を、なぜ解決したいのか?」との「問い」です。解決しようとしている事柄は本当に社会問題なのか。チームとして問題解決の動機はどこにあるのか。この「問い」に回答できないチームは、ビジネスモデルの妥当性を検証するステップに進めません。本コンテストの予選会にも参加させて頂きましたが、多くのチームが「問い」に応えることができず姿を消していきました。「問い」への深堀りが不十分なチームはビジネスモデルの作り込みもできていない。これも事実でした。
しかしながら、審査員としてそのような「問い」を若人たちに発し続けるなか、私は考え込みました。この「問い」を自分自身に発したことが、今までに何回あるだろうか。クライアントの皆様に発したことが、何回あるだろうか。その回数があまりに少ないことに愕然とするとともに、今後マネジメントにおいてこの「問い」を発することがいかに重要となるか、再認識した気がしました。
われわれアバージェンスは、先人から引き継いだマネジメント・コンサルタントの商いを70年弱にわたって営んでいます。この分野における老舗の矜持として、この大切な「問い」をクライアントの皆様と共に考え、ビジネスという「器」が達成できることの可能性を広げていきたいと考えています。
過日、長年のお付き合いを頂く経営者の方から、こんな話を伺いました。
「最近よく、ウチの会社がなぜ存続する必要があるのか、考える。確かにその分野では一定の地位がある。ウチがなくなれば業界に混乱も起き、多くのご迷惑も掛けるだろう。でも少し経てば、他社が同様のサービスを提供して平常に戻るに違いない。『会社の存続理由は株主·社員への貢献だ』と言う人もいる。これは確かに金儲けを目的とするよりは納得感があるが、今ひとつウチの独自性に欠ける気もする。そんなことを考えていて思いついたのが〈ふるさとの為に〉だ。ウチが本社を置くような日本の地方はどこも人口が減り衰退が著しい。古くからある地元の企業はその土地を構成する重要な要素の一つだ。ウチが消滅すれば地域の経済を支えていた前提条件が崩れ、下手すれば地域そのものが消滅しかねない。ドライな人は『それは時の趨勢だ』と言うかもしれないが、そんな人でもいざ自分の故郷がなくなれば寂しく感じるだろう。〈企業の存続理由はふるさとのため〉、この解が正しいかどうかは分からないが、今のところしっくり来ている。そんな会話を、最近よく経営幹部同士でするんだ」
「企業存続の意義」。お題目としては以前からあったと思いますが、多くの経営者の間で最近、これを巡る対話が増えていることを実感します。この簡単に答えの出ない問いに向き合う経営者が増えていることは、「世界が季節を変えつつある(それも夏から秋に)」ことの現れではないかと思うのです。これまで経営では成果という概念をよく「INPUT/OUTPUT」で表してきました。様々な目に見える「資源」をINPUT項に置き、OUTPUT項に何を置くかを検討する。これが企業活動の本質だと多くの人は考え、企業の存続自体は自明の前提と疑問を感じな
しかし季節は変わりました。計量可能な「資源」ではなく、「企業の命(存続)」という不確定要素をINPUT項に置いた時のOUTPUT項、すなわち「成果」とは何なのか? そう考える人が増え始めたのです。人の命同様、企業の命も予測不能なものです。百年続くかもしれませんし、一年後に尽きるやもしれない。それでも命ある限り、OUTPUT項に何を置くかを考え続けることが、企業にとって「本当に生きる」ことなのではないでしょうか。「企業存続の意義」という「お題目」が、現場における「対話」に移行したこと。それは経営の現場で、より本質的な問いが必要とされる時代になったことを示唆しているように思うのです。
個人的な話ですが、私もここ最近になって、ようやく「生を受けて以来はじめて、INPUT項に規定不能な要素が置かれた」状態となりました。OUTPUT項にいかなる要素を置くべきか、悩みながらも考え続ける日々です。
紡ぐ「世界とどう繋がるか」/ACTION
聞く、聴く、訊く。〈キく〉にはいくつかの表記があります。過日、長年のご厚誼を頂戴する社長から、こんなお言葉をいただきました。
「色々なコンサルタントと仕事をしたが、あなた達ほど〈キく〉ことを重視する人々は初めてだった。プロジェクトの検討段階から最後まで、社長の私、管理職から現場まで話を本当によく〈キか〉れた。口が悪い社員などは『どちらがコンサルタントか分からない』と言っていたほどだ。それだけ〈キいて〉いるから、社長の私に厳しいことを指摘するのに不思議と嫌味がない。〈キく〉があなた方の仕事の特徴で、私はそこが気に入っているから、唯一長いお付き合いをしている」
社長の言葉を聞いて心より嬉しくなるとともに、「全員が〈キけ〉ているか」と気の引き締まる思いがしました。
我々は〈キく〉を三つの段階で考えています。まず「聞く」は文字通り話を徹底的に聞くことです。我々は様々なお客様と仕事をご一緒していますが、その時々お話する方とは常に「初めての出逢い」となります。リピート発注でも、事業も違えば部門も違うのが普通、何より我々の追究する「行動変化」の主体者は毎回違います。だからこそ「初めて出逢う人」に多くを聞き、聞いたことを心身に取り込まねば、お客様の懐中に入っていけません。聞くは「門」に耳と書きます。当社の人間には、「少し聞いて分かったつもりになるのは、門を狭くすること。自分の経験に頼らず門を広くとれば、お客様のお役に立て、自身の成長を手にできる」と言っています。
〈聴く〉はさらに深いレベルで話を〈キく〉行為です。相手の言葉を真に深く〈聴く〉ことは滅多にできません。日頃の会話では相手の言葉を聞きながら、自分が何を話そうか「話者としての仕込み」をしているものです。しかしごく稀に、お客様の話を百パーセント〈聴く〉時が訪れます。言葉の裏側に込めた思い、心の奥底に隠れていた思いに到達できたと感じる瞬間です。不思議とその時のことを、お客様はご自身の「転換点」として記憶に残してくださる様です。
最後の〈訊く〉は「行動変化を促す」問いかけです。人は他人からの指示に従い続けるのは困難であり「己が口にしたこと」しか行わないと痛感します。〈訊かれる〉ことで得た自身の気づきは、継続の真の動機となります。〈訊く〉ために必要なのは、我々自身がお客様のことを誰よりも考え続けること。真の顧客理解と、綿密な準備が整った時、初めて〈訊く〉ことが可能になります。当社の人間には、「よき問いを発しお客様の変化を目にした時、きっとこの商いをしていて佳かったと感じるだろう」と伝えています。
「弁がたつ」ことで勝負する人が多い世の中で、我々は「キく」ことの価値を追求し続けます。
「継続は力なり」。毎年この季節になると、この言葉の重さを痛感致します。当社のクルーを見ていても、自身に課した御題をやり遂げたものと、途中で惰性に流されてしまったもの、一年経つとこれほど差がつくのかと驚かされます(さすがに『放り出してしまう』ものはおりません)。
われわれとの協業プロジェクトをきっかけとし、クライアント企業の多くではその後も社内で自主的にプロジェクトを継続しておられます。われわれは「継続的な行動変化」を提供価値の眼目に据えていますので、本当に有り難く感じております。ご縁を頂戴し、自主継続プロジェクトをいくつもフォローしておりますと、どうやら「継続上手」な組織と「継続下手」な組織があることがわかってきます。いったい、上手と下手の差はどのあたりにあるのでしょうか?
どうやらキーワードは、「ほんの少し」であるようです。
あるクライアントは、行動のデッドライン・オーバー(納期遅延)を「ほんの少し」も許しません。約束したことを期限内に完了しないと、会議で厳しく叱責されます。
あるクライアントは、新しい挑戦への躊躇を「ほんの少し」も認めません。言い訳を並べる管理者の背中を、経営陣が押し続けます。
あるクライアントは、社員の「ほんの少し」の行動変化を管理者全員が賞賛します。行動を変化させた本人が恥ずかしくなるくらい、社長を筆頭に全員で祝います。
二宮尊徳翁は「大事をなさんと欲せば、小さなる事を怠らず勤むべし。小積りて大となればなり」と言いました。ミケランジェロの言葉にも「ひとつひとつの些細なことが完璧さを創り出す。完璧であることは、決して些細な、取るに足りないことではない」とあります。
長く続けると惰性に流れがち……これは人の性(さが)です。だからこそ「継続上手」な組織は、惰性に流されないために「ほんの少し」に拘り続けているのではないでしょうか。
「大きなこと」を成し遂げる秘訣は、「小さなこと」への対処の仕方にある。洋の東西を問わず、先人たちが同じ趣旨のことを伝えてくれているのは、これこそが人間の性にあらがう智慧だからではないでしょうか。
激動の今般、誰もが「漠然とした大きな不安」に浮足立ちそうになります。すると、手元の「小さなこと」を疎かにしがちになります。しかし、われわれ経営に携わるものたちが浮足立った時間を過ごしていると、変えねばならぬ「大きなこと」は前進しない。「継続上手」な組織からそんなことを学ばせて頂いたのではないか、と思っている次第です。
アバージェンス一同、「小さなる事を、怠らず勤む」組織を一つでも増やすことを通じ、世の中を「ほんの少し」マシにすることに貢献して参る所存です。
企業変革のお手伝いのご依頼を頂く際、私たちは「ダイアグノスティックス」と呼んでいる事前調査を必ず実施させて頂きます。このプロセスは、約2週間をかけ、企業が抱えるマネジメント上の問題を定量・定性両面から炙り出し、具体的事象を題材に企業トップと問題に対する目線合わせを行い、どの様にその問題を解決していくか、協業にて検討する期間です。私たちのサービスの特色は「企業トップと協業にて解決する」ことにありますので、事前調査プロセスを大変に重要視しています。
ダイアグノスティックスで行う調査手法の一つに「A Day In the Life Observation(一日同行観察調査)」があります。これは、調査対象企業のある社員の方と終日行動を共にさせて頂き、現場で何が起きているか、その実態を一つひとつ愚直かつ克明に記録するものです。極めてシンプルな手法ですが、「ほんとうに終日(A Day In the Life)」であることがミソです。朝一番にパソコンを立ち上げる時からご一緒し、「今日の業務は終わりました。お疲れ様でした」と職場を後にするまで、文字通り「一日中」行動を共にさせて頂くのです。
事前調査の結果をプレゼンテーションさせて頂く席上、企業トップの方々に最もインパクトを与えるのがこのA Day In the Life Observationです。異口同音に「現場はこんな状況だったのか。薄々感じてはいたが……」と発言されます。調査前には懐疑的で、「多数の従業員の中から、わずか数人の、しかもたった一日の業務を観察して何がわかるのか?」と仰っていた方でもです。調査報告を聴いておられる表情を拝見するたび、企業トップの皆さまが「一日」という単位への触感を持ち続けることに苦労されていると痛感します。どのような偉業も全ては「一日」の積み重ねです。「一日」単位のマネジメントが欠如しているが故に、多くの経営課題を(結果的に)放置し、組織の保有する能力を(結果的に)フルに発揮できていない企業がなんと多いことでしょうか。少しでも多くの企業が「一日」単位のマネジメントを取り戻す役に立てればと私たちは考えています。
ダイアグノスティックスの結果からプロジェクト導入を決断され、半年に及んだプロジェクトの終盤、定量・定性両面で実りある成果を手にしつつある時分、このような言葉を発された企業トップの方がいらっしゃいました。
「どうして『A Day In the Life』と言うのか、ようやく分かりましたよ。プロジェクトを始め、今までは全くできていなかった『一日』単位のマネジメントに取り組むことで予想以上の成果を手にできました。定量成果だけでなく、マネジメントが細密になったお陰で、人も随分育ってきました。『これは儲けものだな』というのが正直な感想。でもね、最近思うんです。私自身が『A Day In the Business』レベルでしか捉えられていない。従業員の一日は、経営者にとっては『ビジネスの中の一日』かもしれない。しかし彼ら彼女ら一人ひとりにとっては『人生の中の一日(A Day in the Life)』。一人ひとりの一日を『人生の中の善き一日』にすると決意し追求する姿勢、それがマネジメントだと思います」
夏から秋にかけ、池田晶子さん(哲学者・文筆家)の本ばかり読んでいました。15年ぶりに無性に読みたくなったのです(久方ぶりの再会は佳いものでした)。彼女の本には通奏低音が流れています。
「自分で考えよ」
先月、あるプロジェクトのキックオフで、プロジェクトオーナーはおっしゃいました。「このプロジェクトを通じ『自ら考える』ことができるようになって欲しい」
誠に有難く、身の引き締まる言葉です。
アバージェンスのクルーたちは、プロジェクト中、マネジャーの皆さんへ「WHY(なぜそれを為すのか)?」を何度も投げかけます。「会社が決めたことだからやるんです。それ以上の意味を問うのは時間の無駄です!」と激昂される方もいます。それでもコンサルタントは引き下がりません。「WHY」を徹底的に掘って正しい「WHAT」を導き、精緻な「HOW」を積み上げることを執拗に促します。プロジェクトで創出する成果は、全て「WHY」が起点だからです。
プロジェクトオーナーは続けました。「考えることを、他人任せ、会社任せにしてはいけない。人は『自ら考える』ことで『のみ』成長する。アバージェンスはそれを助けてくれるのです」
池田晶子さんが提起されていたことは、経営の世界でも重要なテーマになってきているようです。
考えてみれば、「経営哲学」という言葉は、少し、独特の使われ方をしています。たとえば法哲学・社会哲学・科学哲学といえば、それぞれ「法・社会・科学とは何か」「法・社会・科学はどうあるべきか」を思索するものです(だそうです)。つまり「A哲学」とは、個別具体的なAについてではなく、「一般的にAとは何か、Aは本来的にどうあるべきか」を考察するものです(だそうです)。ところが経営の分野では、著名な経営者や有名な会社の「持論」を、経営哲学と言い慣わしています(いるように見えます)。
池田晶子さんは、
思想なら「もつ」ことができますが、哲学は「もつ」ことができません。哲学は、たんに、「する」ことしかできません
と言います 。もしもそうならば、「経営哲学」も本来は「もつ」ものでなく「する」ものなのでしょう。すなわち、「経営哲学」とは、組織人たちが日々、自らの仕事に対し「経営(仕事)とは何か」「どうあるべきか」と問い続けることであるはずです。斯様な姿勢をつくることが、特にこの現代、重要な組織テーマとなりつつあるように、ここのところ感じています。
われわれアバージェンスは引続き、「WHYを自分で考え抜く人を産む」プロジェクトを、クライアントの皆様と共につくっていきたいと考えています。そして、本来の意味での「経営哲学」を、クライアントの皆様と「する」ことを継続したいと願っています。
(考える日々(1998)池田 晶子 毎日新聞社 p.28)
とある社長にお勧め頂き、リュック・ベッソン監督の映画『LUCY(ルーシー)』を観ました。トラブルに巻き込まれた主人公「ルーシー」が覚醒し、通常の人間は10%しか使っていない脳を、100%使えるようになっていく。数々の能力を手にする一方、次から次へと大事件が……そんなストーリーでした。
「人の脳で稼働しているのは10%」が事実かどうかは存じ上げません。しかしマネジメントの現場を拝見している限り、「まだまだ脳の稼働領域は拡がるな」と感じることは多々あります。たとえば、われわれがご一緒させて頂くプロジェクトでは初期に「早期改善」を行います。「解決しなくてはマズい『小単位の問題』を一ヶ月で解決する」をテーマに、是が非でも解決しようとガムシャラに行動するものです。
ある管理者は「一ヶ月で解決するなんて絶対に無理!」と憤っておられました。しかし、最近の推進委員会(プロジェクト進捗報告会)では「絶対に無理! と決めていたのは自分自身。いい意味で追い詰められるとアイディアは出る。自分が思っているほど、脳って使えていなかったのかも」。少し照れくさそうに、そう仰っていました。
早期改善のテーマは「一ヶ月で解決できる『小単位の問題』」ではありません。「解決しなくてはマズい『小単位の問題』」を、短期間で解決するよう負荷をかける。それが早期改善活動のミソです。
ちなみに、「解決しなくてはマズい『小単位の問題』をテーマに設定する」のは、口で言うほど簡単ではありません。マネジメントの現状に精通していなければ、的外れな設定となる。逆に現状に流されれば、安直な設定となる。的外れでも安直でも、脳の稼働領域は拡がりません。プロジェクト序盤戦、クライアントの皆さまと一緒に適切な設定を見出すのが、われわれコンサルタントの腕の見せどころでもあります。
適切な早期改善テーマをガムシャラに解決するなかで、従来は無かった……いや「脳のどこかに埋もれていた」アイディアを発掘し、一ヶ月が経つと、以前は無理と思っていた問題を解決しているのです。
脳の稼働領域が拡がると言っても、ルーシーのように脳を100%使えるようになる必要はありません。ビジネスの世界なら、たかだか数パーセント、いや、ほんの1%でも拡げられたなら(それでも従来比1割増)、これまで無理と「思い込んでいた」ことぐらいは解決できます。
もしも、組織に所属するメンバー「全員」の脳の稼働領域が「1%」上がったなら。
そんな風景を想像するとワクワクします。ぜひ、クライアントの皆さまと一緒に見てみたい。そして、そのとき、世の中は「少しマシ」になっている、そのような気が致します。
プロジェクトをきっかけに「社内改善・向上活動」を継続されているクライアント企業が数多くいらっしゃいます。そんな企業の経営幹部の「言葉」を紹介させて頂ければと思います。プロジェクトをご一緒したのは約6年前。取締役で、プロジェクトのサブリーダーでもあったその方とは、プロジェクト運営に留まらず、仕事観や人生観についても議論し、意見を戦わせて頂いていました。
「言葉」を伺ったのは、プロジェクト終盤の進捗報告会でした。その時期には、営業数値の向上・営業幹部のマネジメント力向上などの成果を手にしておられ、プロジェクトの関心は「いかに活動を定着させるか」に移っていました。営業幹部の報告をひと通り聞き終え、その方は質問されました。
「この活動は定着しないよ。A支店長。何故だかわかる?」
理論派タイプのA支店長は少しの沈黙の後、「理由は3つあると思います」と考えを述べました。
「いつも通りプレゼンテーションは上手いけど、全部上っ面の話。本質的じゃない」とばっさり切り捨て、その方はまた質問されました。「この活動は定着しないよ。B支店長、何故だかわかる?」
熱血漢タイプのB支店長は、思いついた順に自分の想いをぶちまけました。
「いつも通り何を言っているかわからない。自分たちが理路を明確にできないようでは、どんなことも長続きしないよね」
会議の出席者は全員下を向き、次は誰が指名されるのだろうかと戦々恐々としています。沈黙がしばらく続いたのち、その方は静かに口を開きました。
「今回プロジェクトで確立した新マネジメント・システムは、人の性(さが)に反しているからだよ。人の性に反することは続かない。そう思わない?」
誰も顔を上げようとしません。
「新マネジメント・システムで支店長は部下と毎日『日次ミーティング』を実施することになっている。これ、本当に継続できるのかな? 接待で酒が過ぎちゃった次の日を想像してよ。『あーしんどい。まだ酒が残ってるし、頭も身体も重いや』という日でも、部下より早く出勤して、日次ミーティングの準備をするんだよ。『今日は勘弁して。また明日からは頑張るからさ』というのが人の性だよね。こんな人の性に反していること、本当に続けていける?」
A支店長・B支店長をはじめ営業幹部は顔を上げ、その方を見つめていました。「この前、イチローが張本の記録を抜いたのは、みんなニュースで知っているよね。若い社員の人に聞いて知ったんだけど、イチローは自分なりの決め事をいろいろ持っているらしいね。しかもそれを必ず守る。『彼は人っぽい感じがしない。だからあんな記録を打ち立てられたんですね』と若い社員が言うのを聞いた瞬間、今回のプロジェクトの本質が自分なりに理解できたわけ。うちの会社は業界トップだよね。これからは提供サービスを拡げ、もう少し大きな業界でも勝負しようとしている。フィールドが大きくなっても、俺はトップを譲る気はないよ。うちの会社はいつも『覇者』でなければならない。それを可能とするには、組織体として人の性に反し続けなければならない。組織として決め事を作り、必ずやり続けなければならない。イチローのようにね。そのための仕組みが『新マネジメント・システム』だと思う。この本質的な意味を、ここにいる全員が、はっきり認識することが重要だと思うんだよ。そうそう、もう一つ」
営業幹部たちはすっかり、惹き込まれたように聴き入っています。
「人の性に完全に反し続けることは不可能だよ。みんなは人間だからね。『ほんの少し』人の性に反し続けることがミソだと思うんだ。ほんの少しなら、やってみようという気にもなる。やり続けていると『あれっ、そんなに苦しくないな』というところまでいける。『ほんの少し人の性に反し続けられる組織』の優位性は、『ほんの少し』ではない。頑張って続けようね」
何の注釈もつける必要のない話に出逢い、コンサルタントをやっていて本当に良かったと思えた一日でした。
「人生における仕事の役割とは何か」
スクリーンには、この一文だけが映し出されています。
会議室に響くのは、プロジェクタのファンが回る音のみ。
きっとご想像がつく通り、スクリーンを見つめる、20の困惑した顔。
それは13年前の実行委員会でした。実行委員会とはプロジェクトで設定する会議で、通常は管理者たちが、プロジェクト目標達成に向けた討議を隔週で行います。そのプロジェクトでは中盤過ぎに早々と目標達成の算段がつき、討議テーマがなくなってしまいました。プロジェクト責任者として、何を討議するか悩んだ私が、ふと思いついたテーマが「人生における仕事の役割とは何か」だったのです。
実行委員会が始まると、さっそく管理者にペアをつくってもらい、1人15分ずつ相手に語りかける仕立てにしました。開始のベルを鳴らすと、意外にも会話は盛り上がっています。感心しながらテーブルを回ってみると……そうです。みんな全く違う話をしているのです。週末のゴルフ、調達関連の業務打合せ、ご子息の進学問題。即座に会話を中断し「スクリーンをもう一度見て下さい!」と私は言いました。「このテーマ以外の会話は、一切認めません!」
念押しして会話を再開。
果たせるかな、先程とは打って変って話は弾みません。ちらほら聞こえていた会話も、開始5分過ぎには途絶え、沈黙が会議室を包み、冒頭の情景に至ったわけです。
実行委員会から3日後。社長との定例ミーティングで本件をお伝えしました。社長は即断即決を旨とする、極めてテンポの速いかたでした。なんとその社長が、暫くじっと動かず、下を向いて考え込まれたのです。そんな姿を拝見するのは初めてです。
漸く社長は口を開きました。「実行委員会では、今後、最終回までこのテーマをやって下さい。もし目標達成率が下がったら、私が責任をとります」
恥を忍んで打ち明けます。私は軽い気持ちで実行委員会の様子を社長と共有しただけでした。初めて目にする「社長の苦悩」に、正直、驚いてさえいました。以降、実行委員会では同じテーマを掲げ続け、最終回では半数の管理者が15分語り切れるようになりました。もちろん、目標の達成率も低下しませんでした。
あのときの社長の苦悩、今は完全に共感できます。もしアバージェンスで同じ情景を見たならば「もはや航海している意味なし」と判断するでしょう。そして、あのときの自分を叱責したい。「何で全員が語れるようにしなかったのか」と。
定量成果こそ出ましたが、あのプロジェクトは、われわれの仕事としては下の下です。この企業様とはアバージェンス起業以降は御縁を頂戴しておりません。そう遠くない日、今度こそは13年前の宿題にお応えしたいと願っています。
われわれがご一緒するプロジェクトでは、現場マネジャーの皆さんが社長および経営陣に進捗を報告する「推進委員会」を隔週で行います。
その準備にあたり、マネジャーとアバージェンスのコンサルタントは、できるだけ本番に近い環境で「予行演習」をします。本番と同じ会場で、スクリーンの前に立ち、ストップウォッチで時間を測り、話してみるのです。この予行演習については数々の不平の言葉を頂きました。
「プレゼンなんて何度もやっているよ。小学生じゃあるまいし、予行演習なんて必要ない!」「社長報告だから気合いが入ってるんでしょ。あなたがたコンサルタントの点数稼ぎのために予行演習までさせられるの?」
わたしも駆け出しのころは理由を説明できず、「まあまあ、そう仰らず」と言葉を濁し、なんとか形だけ予行演習をしている有り様でした。逆の立場なら自分もそう言うだろうな、と思っていました。
そんな迷いが晴れたのは、あるマネジャーとの出逢いの後です。その課長はあがり症で、予行演習の話を持ち出すと「有り難い。そんなことまでお願いできるのですか」と頭を下げてくださいました。初めてポジティブな反応をもらったわたしは、徹底的にサポートしよう、と心密かに誓ったのです。
構成をふたりで考え、納得がいくまで予行演習。それでも初回は「これを機に苦手なことに真っ向から挑戦すること」と社長から激励を受けてしまいました。しかし、回数を重ねるごとに上達し、半年後の最終推進委員会では「質実剛健。わが社の模範となるプレゼンだった」と絶賛されるに至ったのです。
「予行演習、有り難うございました。あの効果はすごいですね」、ふたりでプロジェクトを振り返っているとき、課長はおっしゃいました。「もちろん、プレゼンの腕も少しは上がったと思います。でも、もっと大きなもの、目標達成のコツを手に入れた気がしているのです」。確かに、そのプロジェクトでも突出した成果を創出しておられました。
「予行演習で口にし、本番で口にする。部門内でも共有していますから、さらに部下の前で口にする。これだけ口にすれば、段々とできる気がしてくるものですね。以前は目標達成に対して漠然とした不安がありました。でも、こうやって何度も口にすれば『まぁできるよな』と感じられるとわかってきたんです。見逃していたリスクにも気付くし、苦しいときでも腹を据えて挽回策を考えられました」
この言葉を贈って頂いてから、わたしは全員と真剣に予行演習をするようになりました。いつだってコンサルタントは、クライアントから学ばせて頂いているのです。
ここ最近の世の中の変化には、驚かされるばかりです。今は一月ですが、皆様に本通信をお届けする四月下旬、世の中にはどんな風景がひろがっているでしょうか。「なにひとつ確かなものがない」、そんな想いを抱くことがありました。新聞に、以前関与させて頂いたクライアントの苦境が報じられていたのです。十五年前には誰も想像もしなかった風景が、クライアントの眼前にひろがっています。必死で知恵を出し、幾多の障害を乗り越え実行し、最後には目標達成の美酒に酔ったあの成果。今や影も形もありません。「なにひとつ確かなものがないのは当たり前。先人も『明日というのは幻想だ』と言ったではないか」と思いつつも、「では何のために仕事をするのか。何のために生きるのか」と考えざるを得ませんでした。
先日、とあるクライアントのプロジェクト完了報告会に参加しました。参画したリーダーの皆さんが成し遂げた成果の報告と、活動の振返りをする場でした。そこで拝聴したお話が素晴らしかった! 全てのお話に心震える思いがしました。常駐した案件ではないので実務の詳細までは理解することができません。それでも皆さんが語られる大筋はわかり、その振返りに大層共感したのです。帰り路、余韻に浸りながら、「実(じつ)のある話って素晴らしいな」と感じました。自ら考え、そして皆と共有する。自ら動き、そして皆と達成する。そんな佳き時間を過ごした人たちの話には「実がある」。弁舌巧みで溢れんばかりの情報に飾られたプレゼンテーションより、「実のある」お話のほうが共感することを知りました。
それは、その場のお一人お一人が「唯一人」の時間を過されたからではないかと思いました。当初は会社から与えられたテーマだったかもしれませんが、取り組むうちに自分のテーマとして身体化し、多くの試練を克服し、最後にはゴールに到達する。「唯一人」とは「世界広しといえど、こんなに濃密な時間を過ごしたのは私だけだ」、そんな感覚です。文字にすると月並みに聞こえますが、お一人のリーダーが万感を込めて発した、「自分一人では達成できませんでした。皆の力です」という言葉が胸を打ちました。「唯一人」の時間から、「唯一人」の知見を汲み上げられたんだなぁと感じました。
「ただひとつ確かなもの」がその言葉にはありました。リーダーの皆さんが過ごされた「唯一人」の時間、リーダーの皆さんが汲み上げられた「唯一人」の知見。これは世の中がどう変わろうとも、会社の状況がどう変わろうとも、確かなものです。そして確かなものを手にした者が語る「実のある話」には、どうやら周囲を変えていく(私がそうである様に)力を持っている予感がします。その予感を信じ、クルー全員にて精進し、航海を続けていきます。