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マネジメント・レポート MANAGEMENT REPORT

無手の境地

アバージェンスマネジメント研究所
所長 渡部公太郎

「Management」という言葉

人類史上初めての”Management”という言葉は、16世紀イタリアで記された文書に書かれたものだそうである。ここで”Management”という言葉が指し示したのは、一つには「野生馬の馴致」である。野生の裸馬を捉え、たてがみを掴んで乗りこなし、自分の家まで連れ帰って水を飲ませるまでの一連の行為をManagementと呼んだそうである。もう一つには「急流渡り」である。筏のような小舟を、竿一本用いて急流の中で操りながら、川を渡って向こう岸の目的地まで上手く辿り着かせる行為を、これまたManagementと呼んだそうである。「腕力」や「手捌き」を表現しているが、Managementの語源はラテン語でまさに「手」を意味する”Manus”であると言われている。

「手」は限りある資源

「手」と言っても、人間の持つ手は2本しかなく、千手観音様とは異なり無限の救いの手を差し伸べられるわけではない。その限られた「手」をいかに効果的・効率的に使うかは、ビジネス上の様々な施策の策定やそれらを含むManagement、あるいは日常生活においても、あらゆる場面で頭を悩ましながら、「手を打つ」(妥協するという意味も含め)わけである。「限られた“手”を有効に活かす」ということを考えるとき、その究極として私は「無手勝流」のことをいつも思い浮かべる。 生涯負けなしと知られ剣聖とうたわれた剣豪 塚原卜伝(ぼくでん)[1]をご存知だろうか。大河ドラマ「麒麟がくる」では、室町幕府の将軍・足利義輝が重要な役割を果たしているが、その義輝に剣術を指南したのも卜伝と言われている。宮本武蔵とのなべぶた試合の逸話でも知られる。「真剣の試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚を取らず、矢傷6ヶ所以外に傷一つ受けず、立会って敵を討取ること212人」と言われ、鹿島新陰流の松本政信から卜伝に授けられたとされる秘技「一の太刀」は門外不出とし、ごく一部の高弟にしか教えなかったと伝えられる。 ある日、船に乗っていた卜伝は突然勝負を挑まれ、船上では真っ当な戦いができないと相手を川岸に上げる。卜伝自身は下船せず、持っていた釣り竿を使って船を岸から離し、何事もなく去っていくわけだが、この時に言った言葉が「戦わずして相手を負かす。これぞ無手勝流」だ。

限りなく手間を省く

「無手勝流」というのは卜伝の言葉だったわけだが、その言葉のとおり「戦わず策略で相手に勝つ」という意味を持っている。これと似たような言葉に、「上兵は謀を伐つ」という孫子の言葉がある[2]。早い段階で「この戦いは労多くして益少なし」と相手に思わせるということである。また、老子は「天下の難事は必ず易きより起こり、天下の大事は必ず細(こまか)きより作(お)こる」と言っているが、どんな大事でも事の起こりは簡単に解決できる些細なものだという意味である。同じように相手の闘争心の目を早い段階で摘み取っておけば、戦いになることを未然に防ぐことができると。いずれにせよ、「手をかけずに勝つ」、「無駄な戦いを極限まで排除する」ということである。

「無手」≠「形無し」

かの松下幸之助氏は「無手勝流」を、「合理的・効率的に経営をし成果をあげるのが一番であり経営にも通ずる」と考えたそうである。「相手も傷つけず、自分も傷つかずして、そしてわが主張を相手に入れる。何にもせずして勝つということがいちばんええんだ」と[3]。 実際のエピソードとして、4人の社員で他の幾つかの会社の協力を得ながら大きな成果をあげる社長に会った際に、松下幸之助氏は「これこそ無手勝流。やり方はいくらでもあるもんだ」と深く感心したという逸話があるが、この「やり方はいくらでもある」というくだりが、「やり方は何でもいい」という風に解釈されると厄介である。 「無手勝流」には実はもう一つ、“師伝によらず、自分で勝手に決めた流儀”という意味があるのである。現代社会ではこちらの意味で使われていることも多いようにも感じる。自己流で自分勝手という感じであまりいい意味で使われないように思うが、本来は違うと考えている。いわゆる「形無し」でよいということを言っているのではない。ここは大事なポイントである。

徹底的な型習得の先に

歌舞伎の世界では18代目中村勘三郎氏の言葉が印象的である。彼は生前に歌舞伎を沢山の人に知ってもらい楽しんでもらおうと、シアターコクーンで「コクーン歌舞伎」として新しい演出を取り入れたり、ニューヨークで「平成中村座」を上演するなど、当時ニューヨークタイムズ紙に「大作映画よりも遥かにエキサイティングでおもしろい」と絶賛されるなど新しい歌舞伎のあり方にチャレンジしていた。彼は、「型を会得した人間がするのが“型破り”。そうでなければ、ただの“形無し”」とよく口にしていたと言う。徹底的に型を学び練習に練習を重ね、それを土台に型破りな歌舞伎に精力的に取り組んだそうである。 「無手勝流」は“形無し”のように捉えられがちだが、そうではなく、何かベースとなる考え方ややり方があり、それを徹底的に習得していく中で、そこから“いかに手をかけず成すか”を追究した結果としてできた自己流は一定の理にかなったやり方であり、いわゆる“形無し”とは違う。そして、そこに究極の「無手の境地」があるのだと考える。時に奇策に映ることがあっても、過去の延長線上にない、合理的な新しいやり方を生み出す源ともなり得る。それは英知結集のなせる業なのである。


[1] 無敗の剣聖 塚原卜伝(2011)矢作幸雄、講談社

[2] 孫子が話す 世界一わかりやすい「孫子の兵法」(2007)長尾剛著、‎ PHP研究所

[3] 人生をひらく言葉(2007)谷口全平著、PHP研究所